大興善寺の宗派は禅宗系の曹洞宗です。 禅宗系の各宗派は『禅の心』を信仰のよりどころとしています。 それでは、『禅の心』って何でしょう。
 
     
  『禅の心』を理解するために三つのキーワードをあげてみます。 一つめは『不立文字』、二つめは、『教外別伝』、三つめは、『以心伝心』です。

禅宗系の各宗派は坐禅によって心をやすらかにし、さとりの境地に達することを目的としています。 そして、本来、教えの中心であるはずの教典に書かれていることばは、お釈迦様の教えの一部しか表して いないと考えています。つまり『不立文字』とは教典に書かれている文字に執着しないと言う意味で、文字に こだわっていては真のさとりの境地に達することはできないという考えです。

また、お釈迦様の教えには言葉で 説いた「教内の法」と弟子たちの心に直接伝えられた「教外の法」があり、「教外の法」こそが正しい教えであるとし、これを 『教外別伝』と表現しています。さらに、さとりの内容を、言葉を用いずに心から心へ伝えるという意味で 『以心伝心』と表現し、師と弟子のさとりのレベルが同じになってはじめて正しい教えの伝授が行われる と考えます。

それでは、『禅の心』を身につけるにはどのような実践をすればよいのでしょうか。
まずは坐禅をすることですが一般の方々にはなかなか難しいことだと思いますので、日常の生活の中での どのような事に気を付けて生きて行けばよいのかを記しておきます。 まず、自由自在にものごとを捉え、考えること。そして、常識にとらわれないこと。 さらに、ものごとにこだわらないこと、執着しないこと。これが『禅の心』を身に付ける一番の近道です。

以下に『十牛図』を使ってさらに詳しく解説致します。
   
 
 
   
 
「牛を尋ねる」の図
まさに出発点。何ものにもとらわれない真実の自己を探しにいくところです。
「足跡を見つける」の図
この足跡が唯一の手がかりで、足跡の終着点にこそめざすものがあるばずです。 あなたは勇躍、足跡をたどります。禅が何であるかを知識的にいちおう知った段階といえます。
「牛を見る」の図
足跡はときどき消えてしまうこともあります。それでもくじけずに足跡をたどると、ついに牛を見つけ出すことが出来ました。 修行によって、本来そなわっている仏性を垣間見たといえるでしょう。
「得牛」の図
何とか牛を捕まえることが出来ましたが、野生の牛は荒々しく、あなたは手綱を一刻たりともゆるめることが 出来ません。仏性をとらえてみたものの、あなたはまだ煩悩の人です。さらに修行が必要とされます。
「牧牛」の図
あなたは野生の牛を飼いならすことに成功しました。牛はもう逃げ出すことはありません。
「牛に騎って家に帰る」の図
人と牛の争いはもうありません。あなたと牛は一心同体なのです。牛の上に人なく、人の下に牛なくといった境地です。
「忘牛存人」の図
牛は忘れられ、人だけが残っています。あなたはただ自然の中に佇むだけ。人牛一体といった境地からさらに進んだあなたは もはや牛(仏性)すらはなち忘れています。この大宇宙と同一化した姿ともいえます。 これから最後まで牛は図に現れません。このあたりが禅の本領発揮とでもいえるでしょう。
「人牛倶忘」の図
牛はおろか人さえも忘れられ、まったくの空となりました。図には大円がひとつ描かれているだけです。あなたは 牛と対立する自分さえ、すでに忘れています。
「返本還源」の図
すべては元に返り、源に還ります。まったく無の世界を超えると、あなたは元の世界に戻ってしまいました。図には ただ木石が描かれているだけです。修行を積み、元の世界に戻ってみると、その世界は修行を積む前の世界と 何ら変わりはありませんでした。あなたは、あるものをあるがままに何の抵抗もなく受け入れます。
10 「入廛垂手」の図
あなたは街に出かけ、手をさしのべます。粗末な身なりで泥だらけですが、顔は不思議なほどにこやかです。行く先々で 人々は感化され、心の中から苦しみや不快がとりのぞかれます。いっこうに聖者らしくないあなたは、本来あるがままの 世界で、あるがままに生きる自在の境地にあります。