大興善寺は鎌倉時代に時の執権、
北条時頼公の命により佐野源左衛門尉常世によって
寛元
3年(1245)の建立された奈良の西大寺の末寺です。
当時十八大寺のひとつであり、宗派は律宗
でしたが、
慶長年間(1596)に現在の曹洞宗に改宗されました。
建立当時の大興善寺の規模は大変大きく、荘厳で美しかったそうです。また、この後80年後、歴応の
初め(1338頃)には、僧侶、僧徒、沙弥等150人あまりが常に生活し、大いに開祖の宗風を
振るい最も繁栄していました。
その頃、当時長門の駿河権の守物部武村・物部武直が、護法の檀越となって
仏殿、講堂、宝塔、僧堂などを修造しました。
この時に、如意輪観音像、
金剛力士像が
造られたことが、体内及び背面の墨書銘文により判っております。
その後も、繁栄を続け応永・永享年間
(1400年代初め頃)防州の太守大内義弘や足利六代将軍義政より田畑の寄進を受け広大な寺領を所有する
ようになりました。
しかし、天正年間(1574〜1592)大友の乱によって伽藍は悉く焼かれ僧侶、
僧徒等は、逃散し、残った寺領も官府の所有となり寺宝等も悉く無くなりましたが、釈迦像、観音像、
二金剛像の4体のみは残りました。
しかし、管理も行われずこれより20年間あまりは廃墟となっていました。
慶長の初め(1596)里人が力を合わせて跡地に草葺きの小屋を造り、東雲寺の禅僧、門室玄普和尚を
住まわせ、これより曹洞宗の寺院となりました。
玄普和尚の弟子であり、2代あとの義天玄祝和尚は、心は権力を恐れず、悠々自適、生活にとらわれず
いつも破れ衣に粗末な食事で仏道一筋、物欲を超越した法喜禅悦の世界にあり、
このため次第に
玄祝和尚の名は世に知られるようになったそうです。
当時の藩主、小笠原家の家臣、沖旅齋居士は
日頃から大興善寺の没落していることを憂慮していました。
そこで、仏教に深く帰依し、日頃から
慈善の行いの多かった小笠原忠真公夫人の永貞院様に功徳主となっていただき、大興善寺の再興を
めざしました。
そして、寛文11年(1671)より伽藍の整備をはじめ、仏殿、方丈、
山門、弁天堂、舎利殿など
が造立されました。此の後次第に檀家も増え、僧侶も増し、大興善寺は益々盛んになってきました。
その後何度か、火災に遭いましたが、釈迦像、観音像、二金剛像、山門、舎利殿は現存しております。 仏像4体は福岡県指定有形文化財で、山門、舎利殿は北九州市指定有形文化財です。
前大興善寺住職の子として生まれ、駒澤大学を卒業後、永平寺で修行し
平成15年に住職となる。
曹洞宗に改宗してから二十三世にあたる。
中尾暢宏